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イヌやネコたちと共に暮らす人々と100CLUBとの日々


by threewedge

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藻類について学んだ
at 2016-06-20 11:44
回想話は止めにして
at 2016-06-17 15:55
回想の記 その4
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藻類について学んだ

玉川台にショップが移ってからスタッフ犬が置けなくなった。
100CLUBが出来て十数年来の出来事で、ショップから人間以外の生命体が消えてしまっていたのだ。
植物があるではないかと、わたしが犬や猫たち、それが無理なら小鳥か魚でも飼い出し、またそれに夢中になって収拾がつかなくなってしまうことを怖れた家人からは、あれも駄目これも駄目と息もつけなくなるほどブスブス釘を刺しまくられていた。

メダカくらいはいいのではないかと頼み込み、ようやく水槽を用意してショップにセットした。
ところが、今時のメダカ事情は、赤やブルーなどさまざまな色彩がメタリックに輝き、昔、田んぼや小川にいた黒メダカとは一線を画する趣で、どうにも可愛くない。

そこでたどり着いたのがタナゴだった。
いまやタナゴも種によっては絶滅の危機に瀕している。
子供の頃、当たり前に採れたミヤコタナゴも、もしそれを飼育していたら犯罪行為になってしまう。
そこで、これももうじき飼育禁止になってしまうかもしれない日本バラタナゴを飼育し、出来れば繁殖に成功し、及ばずながら種の保存に一役買って出ようなどという大それた考えに酔って、今や夢中になっているのだ。

犬や猫を健康に育て上げるためには何が必要で、何が余計なことなのかということを仕事としてやってきている訳なのだが、それはタナゴを健康に育て、なお繁殖をも目指そうということになると、飼育に対する神経は同じように使わねば上手くは育たない。

今回勉強になったことがある。
タナゴを繁殖するためには、卵を産みつけるための2枚貝を上手く飼わなければならない。
この2枚貝を長期間飼育するためには、貝の餌、適正な土、水流、水質など、本命のタナゴを飼うより難しい。

2枚貝の餌は珪藻と言われているのだが、クロレラもいいという説もある。
そこでクロレラの会社に連絡をしてみたら、今話題のみどりむし、ユーグレナも販売については同じ会社だった。
また藻類のことを調べまくっていたら、スピルリナという藻類についても詳しく知る事になった。
次回はこれら藻類についての考察と、実に意外な発見があったことについてお話したい。
# by threewedge | 2016-06-20 11:44

回想話は止めにして

馬鹿は死ななきゃなおらねぇ~。という一節は、もの心がついて以来、耳にたこが出来るほど聴いてきたもので、今もって何かという時に口を付いて出てしまう。
無論、他人様に対してではなく、あくまでも自嘲の言葉なのだ。

このブログ「犬から目線」も始めてから3年半ほど、ほぼ毎月続けてきて、以前のコラムから数えれば十数年間、ミミズの寝言のようなことを繰り返し書きなぐってきた。

昨年の暮れも近くなった頃、HPをリニューアルしようと思い立ってから、その事がもうどうにもならなくて、私のようなずれた老人のツールとしてはピタッと来ないところがあるのだろうと、他人様を巻き込んでトライして見たものの、どうにもこうにもならなくなった。

そうなってみると、あらゆる事柄が、あれもこれもと重くのしかかってきて、もしかするとこれが認知症の始まりなのかも知れないなどと、その症状のあれこれを書き留めたりもしてみた。
身近の者に、俺っておかしくないか?と訪ねてみても、前からおんなじだよぉと、そう言われてしまえば身も蓋もないことだから、一層気分は落ち込み、すっかり深みにはまってしまうことになった。

HPのリニューアルの一件もあるのだが、もう一つの理由は、このブログに回想話という馬鹿話を書いてしまったことだ。
過去を振り返ることは死ぬほど嫌なことだと、念を押してまでくだらない昔話を書き綴ってしまった。
止せば良かった。
やっぱり、馬鹿は死ななきゃなおらねぇ~。

そんなこんなで、3ヶ月ほど休んでしまったブログを今日から再開することにした。
元気を取り戻したのだ。
死んじゃったのかも知れない。大病してもう老い先短いのではないかという、そんな声も耳にして、いやそんなことはなく、先ほど言ってきた理由以外は何もないのだから、いい加減目を覚まして、また言いたい放題を言い募って新しいHPに続けていくようにしていこうと思っている。

何故元気を取り戻したのか?
そのきっかけについてはこの次に書かせてもらいます。
# by threewedge | 2016-06-17 15:55

回想の記 その4

 四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。

1909年。田山花袋の「田舎教師」の書き出しだが、その羽生が私の生まれ故郷だ。
羽生には敗戦後の5~6年間くらい、この青縞(青縞というのは藍染のことで羽生は日本でも有数の足袋の産地だった)の市が4の日、つまり4,14、24日と、月3回の市がたっていて、町中にテキ屋が溢れにぎわっていた。

今回は私のペットライフについて回想してみようと思うのだが、そのスタートは市のテキ屋から買った二十日鼠だったもので、こんな書き出しになってしまった。
小学生の低学年の頃の私のペットは二十日鼠に始まり、ひよこ、そしてウサギと続いた。

二十日鼠は増えすぎて手に負えなくなり、ひよこは1~2日で死んでしまい、それでも懲りずに何回も買い続けた。
うさぎは、その餌を採りに鎌を持って田畑や利根川の土手に出掛け、ついでに小川での魚採り、イナゴ採りに夢中になった。
そんな時も相棒はスピッツで、学校以外ではいつも一緒だったが、当時は犬を部屋にあげることは無く、玄関の土間に親父が作った犬小屋に置いていた。

まだ小鳥屋やペットショップが無かった頃は、雀や雲雀の巣を探し回っていた頃があった。雲雀は麦畑や河原に巣を作るのだが容易に見つけることが出来ない。雲雀が空から降り立ったところに巣があるのか、飛び立ったところに巣があるのか、どちらにしても簡単には見付ける事が出来ない。

雀の巣は簡単で、屋根瓦の隙間のようなところに巣を作るので巣立ちの頃を見計らって、よその家の屋根によじ登ってそっと瓦を外し、雛を巣ごとポケットに詰め込んで逃げ帰る。その巣のぬくもりは何ともワクワク感に溢れるものがあった。
あるとき、家に怒鳴り込んできた人がいた。雀の巣を狙って屋根に登った、その家の人だった。
「お宅のせがれが屋根瓦を外して雨漏りするようになった」というのだ。慌てていて屋根瓦を元に戻さなかったのだ。

お寺の裏山にものすごく高い木がそびえていて、そのてっぺん近くに「ゴイサギ」が巣を作っていて、親鳥が餌を運んでいる様子が見て取れた。
「ゴイサギ」という鳥は、成鳥になると背は瑠璃色に腹は白くなる。実にきれいな鳥なのだ。この雛がどうしても欲しくてたまらなくなったのだが、何としても高所恐怖症なもので、とんでもなく高い木に登るわけにはいかない。
そこで、悪ガキ仲間の木登り名人に懇願し、頃合を見計らって木に登ってもらい2匹の雛を取った。

2~3日して、家に寺の和尚さんが来た。
寺もそうだったらしいのだが、近所の人たちが「ゴイサギ」の鳴き声がうるさくてたまらないという騒ぎになっていて、どうもその原因は悪ガキどもが雛をとったことで、親鳥が泣き叫んでいる。
悪ガキといえば折り紙つきの自分のことだろうということで和尚さんが文句を言いに来たという訳だ。

両親ともが本当に申し訳ないと、平身低頭していたが、そのことで怒られた記憶は無く、1年くらいの間、「ゴイサギ」を飼っていた。
ザリガニ、ドジョウ、カエルなどが餌だったが、大きくなってからは長い紐を首につけて、小川や田んぼに連れて行くと自分で餌を取るようになった。
まるで鵜飼のような体だったが今ではこんなことは許されるものではないだろうと思う。

鶏になると可愛いとはとても思えないが、ひよこの可愛さ、愛らしさはたまらないものがあって、そのつながりでカナリア、白文鳥、コキンチョウ・・・・と、飼鳥狂いは50歳くらいまで続いた。野鳥はウグイス・メジロ・ミソサザイ・コマドリ・・・と数え上げればきりが無い。
ただし、ひよこがスタートだったので、インコ類の小鳥はくちばしの形が好きになれず飼ったことがない。いまの総理大臣の爺さんになる岸総理は、アメリカでのあだ名がバード(鳥)だったことを思い出した。

この100CLUBを始めて気が付いたのだが、鳥が嫌いだという人が本当に多い。
どうしてこんなにも愛くるしい小鳥が嫌いなのか良く分からないのだが、小鳥を飼ったら店を止めさせてもらいます、というスタッフまでいる。
そう言えば、つい最近まで用賀にあった小鳥屋さんが閉店してしまった。残念だ。

こんなことばかり書いていていいのかどうか、少し頭の平衡感覚がおかしくなっているのじゃないかと感じるのだが、自分が如何に動物狂いだったのか、自分自身でもちゃんと知っておくべきなので書き続けていこうと思っている。
# by threewedge | 2016-03-25 15:58

回想の記 その3

Aさんに連れられて初めてジャズのライブを聴いたのは高校1年の夏だった。
大手町のサンケイホールでの「アートブレーキーとジャズメッセンジャーズ」の公演だった。
この衝撃的な体験は、アメリカの音楽というより、その源流にあるアフリカの魂まで一挙に体感するようなメッセージとして受け止めることになった。
それは、自身の魂の根底をも激しく揺り動かされる感まであった。

その後、ジャズのライブは学校を休んでまで、もれなく聴き続けた。
セロニアス・モンク、キャノンボール・アダレイ、ソニー・ロリンズ、マイルス・ディビス・・・・・そしてジョン・コルトレーン。
ジャズに病み付きになって今に至っている。

ここではジャズのうんちくを語るつもりは無い。
それよりも、ジャズを通じての人との出会いについての話を書きとめておきたい。

ある日Aさんから、ホットクラブの寄り合いがあるので一緒に行かないか、という誘いがあった。
ホットクラブというのは、ジャズの愛好家の集まりで、銀座4丁目の交差点に近いビルの一室で、毎月集まりがあるのだという。
断る理由など無いので、一緒に付いて行く事になった。

部屋に入ると10人位の人たちがいて、それぞれの人たちがAさんに、「いらっしゃい」「よく来たね」と声をかけて、Aさんも「やぁ、やぁしばらくです」と相槌をうっていたが、その隣に、制服こそ着てはいなかったが坊主頭の子供がいることには気にもかけられていない様子だった。

しばらくして、そこに集まっていた人たちは、他の人たちから先生と呼ばれていた油井正一さんを中心として、岩浪正三、大和明、いそのてるおさんなど、ジャズの専門雑誌スイングジャーナルの執筆者たちだったことが分かった。
確か、その時、若手だった大和明さんが、新たに入手したというジャズのテープを紹介し、それぞれがあれこれと評論を加えていた。

その会合が終わった後、それが恒例だったようで、一杯やろうということになって、行き付けだったらしい神田にある居酒屋天狗に移動した。
私より12歳も年上のAさんは酒を飲まない人だったが、高校生の坊主頭の私に、ビール飲みなさいよっ!と勧められ、余りの名の知れた人たちの集まりにすっかりのぼせ上がっていた私は、断るのもはばかれたもので、勧められるままに生ビールを5杯くらい開けてしまった。

そこでの話題で、誰が言ったのか忘れてしまったが一つだけ忘れられない話がある。
「マイルスのミュート(トランペットに先に取り付ける弱音器)は、コンドームをつけてセックスするような感じだなぁ」と、当代一のトランペッターといわれていたマイルス・ディビスにけちをつけたわけで、こんな話はスイングジャーナルには書けないだろうなぁ、と思った。
その日以来、ジャズに溺れ、酒にも溺れることになる、デビューとなったのだ。

日本のジャズ評論のレベルは、このホットクラブの面々を中心として、とりわけ第一人者である油井正一の著書「ジャズの歴史物語」は、本家のアメリカのジャズ評論を凌駕するほどの高みに達しているものだ。
また、ラジオからも「アスペクト・イン・ジャズ」、「リズム・アワー」など、油井正一の名調子によって多くのジャズが紹介された。

また、ジャズのライブの司会を務め、自由が丘のジャズクラブ、「ファイブ・スポット」のオーナーでもあった、いそのてるおさんとはAさんを含めての長い付き合いになった。そのおかげで、いそのさんと親友関係にあったオスカー・ピーターソンが「ファイブ・スポット」に遊びに来た時、その隣に座って、馬鹿テクとまで言われた超絶テクニックのピアノ演奏を目前にして聴くことが出来た。
興に乗って4~5曲の演奏を終えたオスカー・ピーターソンが、その直ぐ隣の席に座っていた私に握手を求めてきた。
相撲取りのような巨体、そして私の倍もあるほどの手の大きさとその感触は今もって忘れることが出来ない。
# by threewedge | 2016-03-13 15:40

回想の記 その2

敗戦後、映画、音楽、食品を始めとしてアメリカ文化が雪崩を打つように占領下の日本に押し寄せてきた。
アメリカナイゼーション、つまり日本のアメリカ化であり、戦後70年というのはまさしくそのような流れに染めつくされた。
ペットフードもその一例である。

一般的に、日本人は甚大な惨状を呈した敗戦を嘆き悲しんだのではなく、まばゆいばかりのアメリカ文化の到来を嬉々として受け入れたのだ。
平和の到来に歓喜し、戦後の復興という希望に満ちていた時代背景があったことも事実で、自分はそのような時代を71年間生きてきた。

アメリカ映画、そして音楽。ここではアメリカから入ってきた音楽の話をする。
小学生の頃、自分が最初に耳にしたのはカントリーウェスタンで、最も強烈な印象を受けたのはハンク・ウィリアムスだった。裏声を交えた独特な歌唱はその他の歌手から隔絶した個性をもっていた。
その音楽活動は、1953年29歳、薬物中毒で亡くなるまでの6年間という短いもので、多くの天才的な才能が夭折の人生を送る例に漏れず、流星のように現れて消えた。

その直後に現れた圧倒的な個性をもった歌手がエルビス・プレスリーで、カントリーウェスタンにブラックミュージックのリズム&ブルースを重ね合わせた、当時のアメリカの人種差別社会にあって革新的な音楽で、いわゆるロックンロールの誕生であった。
現在でも、エルビスの評価は歴代歌手の最高峰といわれている。

その影響を受けて、日本では有楽町の日本劇場(日劇)でロカビリーといわれた妙な音楽に熱狂した。
平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスがロカビリー3人男といわれ大人気を博し、
舞台には無数の紙テープが投げられ歌い手はテープに埋まってしまって歌どころではない騒ぎだった。

そのような光景はTVで流されたことで記憶に残っているが、ほぼ同時期、私はジャズに出会ってしまった。
私の家の道を挟んだ向かいの菓子屋さんから、毎日、一日中大きな音でジャズが聞こえてきた。
隣のおもちゃ屋の親父さんが、「うるさいッ!」と、時々怒鳴り込んだこともあるほど大きな音だったが、私はその音楽に日を経つごとに引き込まれることになった。

私より12歳年上の菓子屋のAさんは、私がジャズキチになる先達となった。

Aさんが聴いていたオーディオは舶来ものだった。当時のレコードは78回転のSP盤で、片面で3分半位しか聴くことができなかった。
その頃、ベニー・グッドマンのカーネギーホール・コンサートでの「シング・シング・シング」は15分くらいの演奏だったもので、その1曲だけでSP盤のレコードが3枚必要だった。
当時は普通の家では手巻きの蓄音機でSP盤のレコードを聴いていたのだがAさんは舶来の電蓄(電気蓄音機)を持っていて、10枚位のSP盤をいっぺんにセットすると、自動的に順番に裏表がターンテーブルにセットされ針も自動でセットされる。
ジャズには耳を、電蓄には目を見張らせるものがあって、その瞬間アメリカって凄いなぁと、すっかりアメリカ文化にはまってしまったのだ。

その後、高校生になってから、Aさんに連れられて東京にジャズライブを欠かさず聴きに行くようになって、また、Aさんを通じて多くの名の知れた人たちに出会うことになった。
# by threewedge | 2016-03-04 18:20